最近色んな分野で「居場所」というキーワードを目にする。
お年寄りの居場所、障がい者の居場所、不登校の居場所、若者の居場所などなど。
東京都知事選で家入氏が「居場所づくり」を掲げたので「居場所」という言葉に馴染みがない人はほとんどいないと思う。


私が「居場所」という言葉を初めて聞いたのはとある支援現場だ。
そこでは参加者が集まりやすい空間(「居場所」)をつくり、「居場所」での活動を通して参加者の社会復帰を促すことを目的としていた。
最初は順調にスタートし、参加者も積極的に活動に参加するようになった。


しかしあることを境に「居場所」が大きく揺らいでしまったのである。
参加者の一人が、一緒にいる○○さんが嫌いだから私のために居場所を開放する日を設けてよと申し出たのである。
そしてこともあろうに、運営していた団体は定期的な開催日とは別に個人のために「居場所」を開放する日をつくった。
もうこうなってしまっては「居場所」の崩壊である。
特別扱いされた参加者は次々「居場所」に対する不満を漏らし始めた。
運営側はその要望に全て応えようと走り回った。
当然周りで見ている他の参加者はたまったものではない。
やっと見つけた「居場所」なのに、自分たちが蔑ろにされているのだから。
火花が油に引火するように参加者の間でわがままが広がっていった。
ついに運営側はルールを厳しく設け、「居場所」での行動を制限するようになった。
制限と言ってもたいしたことではない。
皆で仲良くしましょうとか、挨拶をしましょうとかその程度である。
社会で生きるためには極当たり前のことだが、わがままがまかり通ってきた参加者にとっては苦痛で仕方がなかった。
ほどなくして参加者は「居場所」に寄り付かなくなった。



運営側が大きく失敗したのは、「居場所」を目的にしてしまったことである。
あくまで「居場所」は手段。
参加者の社会復帰を促すのだから多少厳しいのは当たり前だし、世の中を生きていくためのノウハウを提供するべきだった。
それを怠り、参加者を甘やかしたのが大きな敗因。
未だに支援の現場や若い起業家の間では「居場所」がキーワードになっている。
それ自体を叩いたりしないが、居場所なんてそう簡単につくれるものではない。
中途半端な「居場所」は多くの人を路頭に迷わすのだ。


最近twitterにて茂木健一郎氏が公衆浴場でのタトゥーについて下記のような貼紙を貼るべきだと呟いた。
「当浴場では、他のお客様のご迷惑になりますので、タトゥー、刺青のお客様は入浴すべきではない、不快だ、断られても当然、自己責任だ、とお考えの差別主義のお客様のご入浴はお断りしております。みなさまのご理解、ご協力をお願いいたします」。
これに対して「当然だ!」「外国ではタトゥーをいれているのは当たり前」「日本は時代遅れ」という賛同する声が寄せられている。
所詮はSNSなので反対意見も多数あるとは思うが、こんなに賛成する人がいるのかと私は驚いてしまった。
茂木健一郎氏が言いたいことはだいたいわかる。
しかしタトゥーをいれるのは自由で、タトゥーをいれていることを怪訝な目で見ることは差別だというのは少々短絡的過ぎやしないだろうか。
茂木健一郎氏がどのような意図でこういう発言をしたのかはわからないが、少なくともこのツイートを我先にと拡散している人たちを見て私は首を傾げてしまう。


もう五年位前に私は彫り師の方とお話をさせていただいたことがある。
彫り師とは説明するまでもないのだが、人の体に絵を刻み込む人たちである。
もちろん彼らはそれを生業にしているのだから刺青とかタトゥーに関しては肝要だ。
だが、そんな彼らはこんな発言をした。
「最近は好き勝手に体に絵を描いてくれって人が増えよる。中にはナースやっとるのにタトゥー入れてくださいって人もおる。そういう人らは自分らの体の絵を見て周りの人がどんな反応するか考えとらんのかの。患者さんが刺青見つけたらどんな気持ちになるんかの。海に遊びに来た家族が、刺青だらけの人を見つけたらどんな顔するんかの。刺青とかタトゥーは背負うもんじゃろうが。背負う気がなくて遊びでいれるんならいれんなや」
当時はmixiだかでタトゥー擁護の発言が目立っていたときだったと思う。
そんな世間様の浮かれた様子を見て刺青を彫ることを生業にしている人たちが漏らした言葉だ。
私も幼いころ銭湯に行ったとき、刺青を入れた人や地元のやくざと一緒に湯船に浸かった。
広島の商店街ではそんな光景が当たり前だった。
知り合いにもタトゥーをいれた人がいる。
だからこそなのか。タトゥーの自由を叫ぶ人たちを見るとなんか違う気がするのである。


震災の追悼ムード真っ盛りの中、私は万能細胞のニュースが気になっていた。
一時期世間を賑わせたあの研究結果は実は嘘だったのではないかというニュースだ。
この記事を書いている段階ではまだ疑惑に決着がついていない。
これが本当に虚偽の論文なら非常に残念である。


一方で解せないのが、小保方さんを彼氏が発覚したアイドルのように扱う勘違い世間様である。
万能細胞発見の時には割烹着着てる美人だの、(人としての)スペックが高いだの、いつものごとく「小保方さんが子どもの頃は」が始まり、プライベートなことまで聞き出そうとする輩までいた。
報道関係者で論文まで読んだ人はほとんどいないだろう。
こんなことが起きるのは、取材する側に理系の人間がいないことが原因の一つだと考えられる。
私が学生の頃専門誌の記者になりたいと言ったら先輩に「文系がなる仕事じゃないの?」と言われたことがあった。
サイエンスライターなんて存在を知ってた私は物書き=文系という視野の狭さに呆れたものだ。
科学雑誌を読めば物を書くのにどれだけ専門知識がいるのかわかるだろう。
専門の人間がいないから新聞は科学者をアイドル扱いしかできないのではないか。
ニュースを見てる方も難しい記事なんて読みたくない。
だからアイドル扱いの簡単な話題に飛びつく。
研究の中身に興味なかった人間がブームに乗るがごとく一人の人間を叩くなんておかしな話だ。
実は小保方は幼い頃から嘘ばかりついてたとかバカな記事を書くところがあるかもしれない。
批判ブームの中、冷静な人もきちんといる。
日本が研究者を育てる環境にないのが今回の騒動の根本的な問題で、これをどうにかしない限り第二、第三の虚偽の論文が出てくるという指摘だ。
確かに大学でドクターまで行ったのに就職先がないなんて話はよく聞く。
大学で研究したくてもろくに論文も書いてない年寄り教授が残ってるせいで若者が路頭に迷うなんて話も聞く。
小保方さんが弱点だらけの論文を書いていたのなら、そうさせた環境を疑うべきだろう。
少なくとも、教育結果主義に心酔し、大学を就職予備校のように扱ってきた我々にも責任があると思う。


そういえば、小保方さんが公の場で謝罪すれば全て片付くと言ってる人がいるようで。
まるでファンを裏切ったアイドルを坊主にするような仕打ち。
ハラキリショーって喜んでる外人じゃないんだからさ。



※3月14日の夕方の報道によると、小保方さんらが論文の撤回と問題となった画像の流用を認めたようです。調査は今後も行うようですが、これを機に”見た目上”解決したことにならないでもらいたいですね。理系の世界がほとんど認知されてない日本だからこそ、私は心底そう思います。


結論を先に述べてしまうと、「良い子」「資格をとれば大丈夫」「芸術家向きなのかもしれない」である。
筆者自身ニート経験者で、ニート脱退の過程の中で出会った様々なニートやその親が頻繁に使っていた言葉を選んでいる。



一つ目の「良い子」。
これはもう言わない親はいないんじゃないかというくらい多い。
我が子が良い子なのは結構なことだが、それをいい訳に使うのは感心しない。
「お宅のお子さん、もう何年も何もしてないですよね?」「はい。でも、あの子はホントは良い子なんです」なんていうやりとりを聞いたことはもう何回もある。
断言するが、社会に出て行くのに「良い子」であることは当たり前。
むしろ、家では悪い子なのに社会ではニーズに応えてきびきび動ける人の方が役に立つ。



二つ目の「資格をとれば大丈夫」。
もちろん、大丈夫ではない。
今時資格なんて持ってたって何の役にも立たない。
確かに一時期資格ブームはあった。
私が中学生くらいの時だったと思う。
大人でも「とりあえず漢検受けようか」なんてのん気なことが言えた時代である。
だが、資格ブームは去った。
テレビで流れる資格関係の宣伝は、不景気を盾に顧客を増やそうとしている企業の口車だ。
そもそも資格は何かをするために必要なもの。
資格をとることを目的にしている時点で世間から外れていると思って欲しい。



最後は切り札の「芸術家向きなのかもしれない」だ。
安心して欲しい。
あなたのお子さんは特別な力もない、ただの社会に出れない凡人だ。
私だってド底辺とはいえアーティストの端くれ。
プロの方々にお会いしたことは何度もある。
彼らは、もう、ほんとに近寄りがたいオーラをまとっている。
ものづくりに対する精神はもちろん、普段の会話で出てくる言葉も一般人とは比較にならないセンスがある。
それ以上に他人の見てないところで尋常じゃないこだわりと努力がある。
繰り返して言う。
お宅の子どもに才能なんてない。
単に家の外で挨拶ができないだけだ。



ニートの問題は必ず子育ての問題とリンクしている。
だからと言って乱暴で厳しく接すればいいという意味ではない。
課題は十人十色で、解決法もまたしかり。
一方でどの家にも共通する問題点は無意識の内に外との関係を遮断していること。
今はこういう相談を受けてくれる窓口は多い。
我が子に異変があったら意固地にならず自分を反省し、外に耳を傾けてみよう。


突然だが私は新聞配達のバイトをしている。
深夜皆が眠っている間にバイクを走らせ、アパートの階段を駆け上がってポストに新聞を突っ込む。
労働環境はそれほど悪くないと思っている。
ただ一つ面倒くさいことを挙げるとすれば、それは配達員も新聞の契約をしないといけないことだろう。


正確に言うと契約は義務ではない。
別に契約しないからといって解雇されるわけでも、いじめられるわけでもない。
ただ単に「あー、そうですか。契約しないんですか」という目で見られるだけだ。
新聞の営業まわりをしている人なら身を持ってわかっているだろうが、今の世の中新聞紙なんて売れない。
ほとんどの専売所は夕刊の配達を止めている。
営業の人と喫煙所で駄弁っていると「お前みたいな若い奴ははやく辞めろよ」と説教される。
ライバル紙の専売所がなくなっていたなんてことも珍しくない。
それだけ不景気なのである。
景気の良い頃は新聞の専売所で正社員をしていたら月収百五十万円を超えるなんてザラだった。
配達員には無料で新聞が配られていた。
椅子に座っているだけで広告のお願いが舞い込んできた。
今や広告はネットに取られ、新聞は携帯端末で見るのが当たり前になってきている。
営業の人は言う。
「こんだけネットが普及してたら新聞なんていらないわな」。
しかし専売所の店長はそうはいかない。
売上のノルマがある以上、例え身内である社員に対してでも売らないといけないのだ。


同じようなことは他の業界でもある。
例えば家電屋や携帯ショップ。
ネットの契約数を上げるために社員に契約を迫る。
時々アホななんの需要もなさそうなデジタルフォトフレームを売りつけたりもする。
若い女の子向けのアパレルショップもそう。
社員割をちらつかせる。
働いてる子もよくわかってないのか、毎月服を買う。
買いすぎて家賃を払えなくなったなんて事例も聞く。
昨年の末は年賀状の販売ノルマがニュースに取り上げられていたが、もうどこもこんな状態なのである。
ものなんか作っても売れやしない。
売れやしないから身内に売る。
でも、本来お商売の世界で売れないものは必要とされてないものなんだから、お店は不必要なものを身内に売っていることになる。
おかしな話だ。
これをどう打開すればいいかは私にはわからない。
が、そろそろ日本の経済もバカになってきているのは確かなわけで。

いつかどこかで決壊するんじゃないかと思っている。


ある教師に「道徳教育の時間に流す良い音楽ない?」と質問された。
その教師は道徳の授業中に、感動する音楽を流しながら生徒達に教材を読ませようとしていたらしい。
私は呆れて「学校はまだそんな時代遅れなことをしているのか」と言った。
音楽を流して感情をコントロールするなんて大戦中の学校教育となんら変わらない。
予め学校が用意した答えに生徒を整列させているだけだ。
そんなところで前にならえをしたってなんの意味もない。



大学時代、教職の先生で非常にへそ曲がりの人がいた。
先生は実際に道徳の授業で使われた教材を用い、私達に模擬授業を行わせたのである。
教材の中身がどんな話だったかよく覚えていないが、主人公が自分の夢を捨て、少女に親切なことをする話だったように記憶している。
模擬授業では全員が主人公の誠実さを説く授業を行ったが、先生は「主人公の夢に賭けていた人達はさぞ裏切られた気分だったろう。主人公は彼らを裏切った。少女は別の人が助けても良かったはずだ」と放ち、私達学生は度肝を抜かれた。
道徳の授業の面白さはそこにある。
例えば人殺しを正当化する意見が出ても良い。
レイプを正当化する意見が出ても良い。
最初から答えや正義を用意していて、そこにたどり着く授業は国語の授業だ。
先生を含め、皆でより良い答えは何かを考えていくプロセスが道徳の授業だ。
道徳授業の理想的なスタイルはマイケル・サンデル先生のスタイルだろう。
まず皆に疑問をぶつけ、どんな意見が出てきても受け止めてみる。
否定することはせず、意見を褒め、意見に対する意見をさらに求める。
授業の最後には答えを決めず、皆がより良い結論に到達できるようアドバイスをして終わる。
これこそが道徳授業だと思う。
私はこのスタイルの授業を受けたことがある。
いわゆるピアというやつだ。
facebookを見た感じ、若い人の間ではピア形式の話し合いが主流になっているようだ。
実際の会議に導入しているサークルも存在する。
定期的に皆で話し合いを行うシェアハウスもあるようだ。



私が会った中でピアのスタイルを嫌う人は固定観念の塊だった。
彼らは自分では想像もつかない奇抜な発想が出たとき、ついそれに蓋をしてしまうようだ。
そういう意味では日本の教師のほとんどは生徒の意見を聴く器がないのかもしれない。


出る杭を打つ授業を続ける限り、日本の道徳教育はどんどん置いていかれるだろう。


結論を先に述べると、テレビが主役の時代は終わったからである。
戦後、人々の娯楽の中心はテレビだった。
一家に一台テレビが無かった時代、人々は街頭テレビに集まって番組を見ていた。
一般家庭でも買えるようになるとテレビは茶の間の主役になった。
カラーテレビの登場は当時の人達に衝撃を与えた。


テレビが娯楽の主流だった時代というのは、いわば人々は娯楽を与えられていたということだ。
例えばドリフのコントはどうだろう。
いかりや長介は当時の家庭では当たり前の頑固な父親的立場。加藤茶や志村けんは父親を困らせる悪ガキだ。
メンバーの一人である仲本工事は、「悪ガキが父親を困らせるコントは、当時父親に怒鳴られた人たちにとっては面白くてしょうがなかったはずだ」と語っている。
テレビ番組の中でもNHKは常に質の高い番組を提供してきた。
紅白歌合戦の盛り上がりぶりを見れば一目瞭然だ。
視聴者はそんな娯楽に惜しまず出資をしただろう。


ところが今はどうだろう。
ケーブルテレビに繋げばチャンネル数は莫大だ。
ネットの番組も含めればコンテンツは膨大で、個人が発信している番組も含めれば無限大と言っていいだろう。
時代は番組を与えられる時代から選択する時代、さらに発信する時代に変わったのだ。
そんな時代に、ある特定の放送協会にだけお金を支払ってくださいなんて理屈が受け入れられるだろうか? 
例え見ていなくても受信料を払うのは当然などという理由が納得されるだろうか?  
視聴者と放送する側で明らかに意識の差が生まれている。
どちらが正しいのかはわからないが、私は前者の方が新しいと思う。
仮に「お金を払えばNHKの番組が見られるようになります」という案内なら今より納得する視聴者は増えるだろう。


ニコ生のある番組で田原総一朗が「NHK受信料を無料にして一番困るのは民放だ」と発言していた。
民放とNHKの番組を比較した場合、質が高いのはNHKの方だ。だから同じ土俵で戦った場合、民放の視聴率ががくっと落ちるのだそうだ。
もしこの意見が正しいのであれば、戦後人々を支えてきたテレビ番組はいつしかテレビ局を支えるツールへと変わってしまったことになる。
本人達の気づかぬ内に、視聴者だけでなく、放送する側も番組に対する意識が変わってしまったのではないだろうか。


※人物名は敬称略。