ある教師に「道徳教育の時間に流す良い音楽ない?」と質問された。
その教師は道徳の授業中に、感動する音楽を流しながら生徒達に教材を読ませようとしていたらしい。
私は呆れて「学校はまだそんな時代遅れなことをしているのか」と言った。
音楽を流して感情をコントロールするなんて大戦中の学校教育となんら変わらない。
予め学校が用意した答えに生徒を整列させているだけだ。
そんなところで前にならえをしたってなんの意味もない。



大学時代、教職の先生で非常にへそ曲がりの人がいた。
先生は実際に道徳の授業で使われた教材を用い、私達に模擬授業を行わせたのである。
教材の中身がどんな話だったかよく覚えていないが、主人公が自分の夢を捨て、少女に親切なことをする話だったように記憶している。
模擬授業では全員が主人公の誠実さを説く授業を行ったが、先生は「主人公の夢に賭けていた人達はさぞ裏切られた気分だったろう。主人公は彼らを裏切った。少女は別の人が助けても良かったはずだ」と放ち、私達学生は度肝を抜かれた。
道徳の授業の面白さはそこにある。
例えば人殺しを正当化する意見が出ても良い。
レイプを正当化する意見が出ても良い。
最初から答えや正義を用意していて、そこにたどり着く授業は国語の授業だ。
先生を含め、皆でより良い答えは何かを考えていくプロセスが道徳の授業だ。
道徳授業の理想的なスタイルはマイケル・サンデル先生のスタイルだろう。
まず皆に疑問をぶつけ、どんな意見が出てきても受け止めてみる。
否定することはせず、意見を褒め、意見に対する意見をさらに求める。
授業の最後には答えを決めず、皆がより良い結論に到達できるようアドバイスをして終わる。
これこそが道徳授業だと思う。
私はこのスタイルの授業を受けたことがある。
いわゆるピアというやつだ。
facebookを見た感じ、若い人の間ではピア形式の話し合いが主流になっているようだ。
実際の会議に導入しているサークルも存在する。
定期的に皆で話し合いを行うシェアハウスもあるようだ。



私が会った中でピアのスタイルを嫌う人は固定観念の塊だった。
彼らは自分では想像もつかない奇抜な発想が出たとき、ついそれに蓋をしてしまうようだ。
そういう意味では日本の教師のほとんどは生徒の意見を聴く器がないのかもしれない。


出る杭を打つ授業を続ける限り、日本の道徳教育はどんどん置いていかれるだろう。


結論を先に述べると、テレビが主役の時代は終わったからである。
戦後、人々の娯楽の中心はテレビだった。
一家に一台テレビが無かった時代、人々は街頭テレビに集まって番組を見ていた。
一般家庭でも買えるようになるとテレビは茶の間の主役になった。
カラーテレビの登場は当時の人達に衝撃を与えた。


テレビが娯楽の主流だった時代というのは、いわば人々は娯楽を与えられていたということだ。
例えばドリフのコントはどうだろう。
いかりや長介は当時の家庭では当たり前の頑固な父親的立場。加藤茶や志村けんは父親を困らせる悪ガキだ。
メンバーの一人である仲本工事は、「悪ガキが父親を困らせるコントは、当時父親に怒鳴られた人たちにとっては面白くてしょうがなかったはずだ」と語っている。
テレビ番組の中でもNHKは常に質の高い番組を提供してきた。
紅白歌合戦の盛り上がりぶりを見れば一目瞭然だ。
視聴者はそんな娯楽に惜しまず出資をしただろう。


ところが今はどうだろう。
ケーブルテレビに繋げばチャンネル数は莫大だ。
ネットの番組も含めればコンテンツは膨大で、個人が発信している番組も含めれば無限大と言っていいだろう。
時代は番組を与えられる時代から選択する時代、さらに発信する時代に変わったのだ。
そんな時代に、ある特定の放送協会にだけお金を支払ってくださいなんて理屈が受け入れられるだろうか? 
例え見ていなくても受信料を払うのは当然などという理由が納得されるだろうか?  
視聴者と放送する側で明らかに意識の差が生まれている。
どちらが正しいのかはわからないが、私は前者の方が新しいと思う。
仮に「お金を払えばNHKの番組が見られるようになります」という案内なら今より納得する視聴者は増えるだろう。


ニコ生のある番組で田原総一朗が「NHK受信料を無料にして一番困るのは民放だ」と発言していた。
民放とNHKの番組を比較した場合、質が高いのはNHKの方だ。だから同じ土俵で戦った場合、民放の視聴率ががくっと落ちるのだそうだ。
もしこの意見が正しいのであれば、戦後人々を支えてきたテレビ番組はいつしかテレビ局を支えるツールへと変わってしまったことになる。
本人達の気づかぬ内に、視聴者だけでなく、放送する側も番組に対する意識が変わってしまったのではないだろうか。


※人物名は敬称略。