政治について質問をすると、「憲法を改正するべきだ」「自衛隊をもっと強くするべきだ」と叫ぶ輩がいる。
選挙前、私が訊いた中でこのような意見を持っていたのは主に40代から60代の男女だった。
彼らの主張では現代日本は平和という椅子に座り続け、頭のボケた国になってしまっているようだ。
最近の領土問題、不審船事件、拉致問題、ミサイル問題を解決するためには日本の軍事力をとにかく強化させ、国民のボケた頭を目覚めさせることが重要らしい。
私らゆとり世代は、ちょうど小学校で戦時中終戦直後の差別を反省し、皆を認めようという教育が本格的に始まった世代だと思う。
しかし一方で不審船事件がニュースで取り沙汰され、9.11後テロが身近な単語になった世代でもある。
私らはそれでも戦争というものは基本的に反対だし、そもそも戦争などというものは身近に感じたこともない。
私より下の世代は、祖母や祖父から戦争の話すら聴いたことがないそうだ。
前述した40代から60代の世代はそんな私たちを平和ボケしていると揶揄する。だから、ここで言っておきたい。


平和ボケしていて何が悪い!!!


平和を批判するのであれば、戦争とはなんぞやという話になる。
軍事力を強化すれば外交の時有利に立てる。軍隊を持っていなければ侵略者からの攻撃に備えられない。今の腐った若者を強くするためには兵役経験が必要だ。
戦争推奨者達は様々な理屈を並べるが、戦争とはすなわち銃弾が当たれば体が砕けて死ぬことである。
爆弾が落ちれば血の塊となって消えてしまうことである。
嘘だと思うならSuriye Devrimiというサイトを見てみればいい。
争いに巻き込まれた子どもや女性の痛々しい姿が写っている。男性だって例外ではない。
肉が裂けた男性の姿が写っているだろう。


そんな戦争を知らない若者が国に溢れている。十分幸せなことではないか。
そもそも軍事を強化せねば外国に意見を言えないとはどういうことなのか。
戦地で戦うのが兵隊なら、争いをなるべく避けるのが国の役目だろう。
軍事の強化とはすなわち政治家の怠慢である。
そしてその口車に乗せられる国民も国民だ。
常在戦場とは自分を律する立派な心構えだ。
しかしそれを栗林忠道指揮官が言うのと、いつでもお茶菓子が出てくる部屋にいる政治家が言うのではわけが違う。
私から言わせれば、今の政治家の方がよっぽど平和ボケしている。


◆参考サイト
※ショッキングな映像、写真があります。


東京都青少年健全育成条例の改正に伴いアニメや漫画における表現が規制されるという話がネットではもちきりだ。
性的描写を抑えるため、性犯罪を予防するためのこの法案がなぜ問題なのか。
それは規制する根拠が曖昧だからだ。
噂では「ドラえもん」ですら規制しようと思えば規制できるらしい。


なぜアニメや漫画だけが規制の対象になるのか。
実を言うとアニメや漫画だけが規制の対象ではないのだが、政治家の意見を聞いていると、どうもオタク文化のアニメや漫画を邪険にしているように窺える。
これに対して掲示板やミニブログでは様々な反対意見が飛び交っているが、私はある種アニメや漫画が的にされるのは仕方のない事だと思っている。
コミケや地方で行われるその類のイベントでは二次創作の同人誌が売られている。
中にはほのぼの系アニメのキャラがあられもない姿になっている同人誌も存在しており、下心満載の男はそういう物に興味を持ったりするのである。
ただ、それ自体は問題ではない。
問題なのは、配慮のないユーザーなのだ。
エロい本を堂々と公共の場で広げて読み始めたり、もう下着なのか水着なのか判別できない格好をした女の子がプリントされたカバンを自慢気に背負って電車に乗ったり、自分が未成年であるにもかかわらずR-18の本を買ったりと社会で生きる人間としてどうかと思う行動が多々見られる。
売る側も売る側で未成年と知りつつR-18の本を売ってしまう。
さらに誰がどう見てもエロい本なのに「そういった類の本じゃない」と平気で言い訳をする。
通常これが、出版社が行なっていることであれば会社に注意を促せばよい。
しかし同人はあくまで個人や少数で形成された、言わば個人店。
その個人店が集まる所では平気でマナー違反が行われるというのであれば、国としては表現そのものを規制するしかあるまい。
なにせ注意するべき会社のトップがいないのだから。

だからといって私は表現規制に賛成しているわけではない。
ただ、twitterを見ているとどうも自分たちのことは見直さず政府を一方的に叩いている意見が目立つ。
ほんとにアニメや漫画が好きなら自分の問題として捉えてはどうだろうか。
少なくとも私は、今のユーザーを見ていて真剣に捉えているようには見えない。



友人が私の家に遊びに来たので、スーパー銭湯に行ってきた。
綺麗な脱衣所に、広い浴槽。風呂から出たら牛乳やコーラだけでなく定食や鍋まで置いてある飲食店。
下手をすればちょっとしたレジャー施設だが、ただ一つ文句を言うとしたら値段が高い。
風呂に入るだけで一人七百円もとられ、タオルセット付きだと千円である。
友人と「俺らがガキの頃ってまだ商店街に銭湯があって、すんげえ安かったよな」「自販機でジュース買う感覚で銭湯行ってたよな」「行ってた行ってた。石鹸置いてある所なんてないから自分らで持って行ってたよな」なんて話をした。
私の父なんて風呂に入るのが面倒くさいから銭湯に行くと言ってたくらいで、それだけ銭湯は馴染みの深いものだったのだ。
 
銭湯に行ったら行ったで、これまた色んな業種の人間がいた。
あの頃はまだ広島の廿日市商店街にもヤクザがいたから刺青を入れたおっちゃん達が湯船に浸かっていた。
それでも彼らが何かしてくることはなく、声を荒げることもない。
刺青の人と刺青の入ってない人が皆同じ浴槽に入っていたのだ。
体を洗うときに隣に座っている刺青のおっちゃんから「石鹸貸してくれ」と言われたこともあるし、私が濡れた床で滑った時も厳ついおっちゃんが「大丈夫か、坊主?」と声をかけてきたこともある。
風呂から出て扇風機で「あ゛—」と遊んでいると脱衣所のおっちゃん達が声をかけてきたり。
風呂に入って緊張が緩むのか、皆自分の身内話をしたり、おすすめのお遊びスポットを教えてくれたり、意味もなく「坊主、勉強しっかりやれよ」と言ってきたりと自然と交流が行われていた。

最近私は異業種交流会なんぞに参加してきた。
皆で名刺交換をして、さあ乾杯しましょうとグラスを掲げる。
第一回目は挨拶代わりに簡単な身の上話をするのがいいのだそうだ。
捻くれ者の私にはこの異業種交流会が合わない。
なぜわざわざセッティングをしてもらった上で身の上話をしなければならんのだ。
私が銭湯を嗜んでいた幼少の頃から二十年余りが過ぎ、商店街から銭湯の煙突が消え、商店街そのものの存続が怪しくなっている。
それと同時並行で、人間同士の交流も下手になっているのではないだろうか。
交流会の後半では参加者が隅の方で名刺を並べて必死に顔と名前を一致させようとしていた。

逆上せた顔で、ゲラゲラ笑って話していたあの頃のおっちゃん達が懐かしい。そう感じる今時の若者である。



プライベートで引きこもり支援の方や実際に無職の若者と接する機会が多い。
安易にカテゴライズしてはいけないと思うが、私は彼らに共通の特徴があることに気づいた。
それは生き方と働き方を混同している点だ。

親が言ったのか学校で教わったのか知らないが、家で「働くこととはなんぞや」みたいなことを考えながら隙を見つけてはオナニーをする連中は、社会では“演じる”という技術が必要だということがわかってないように思う。
昔読んだ本の中で「働くこととは役者になることだ」と書いてあった。
要は社会で働く上でありのままの自分なんて需要がないのである。
人生を通して見ればやりたいことをやるとかありのままの自分というのは大切なことだ。
が、働くことにこの考えを混ぜるのはマズイ。
お商売というのは相手のニーズに答えるということなのだ。
相手が求めていることに対してきちんとお返しをしないといけない。
そんな場でありのままの自分なんて許されるだろうか?
例えば魚屋で働いている人間が魚について詳しくなかったらどうだろう。
「なんで知らねえんだよ!」とお客が怒ると、魚屋は「はい。実は私、花が好きでして、ホントは花屋になりたいんです」なんて返されたらたまったものではない。
これはその人個人として付き合うなら面白いだろう。だが魚屋としては失格だ。

教育関係の方とお話をすると面白いことを聞いたりする。
特に若手の教師に多いようで、「なぜテストを受けさせるのか?」とか「学校の勉強は人生に役立つのか?」なんて議論をクソ真面目にする連中がいるそうだ。
ナンセンスな議論だ。
そんなものは出題者に求められているからとはっきり生徒に教えれば良い。
テストというのは将来役立つかではなく、何を求められて、何を答えたらいいかを学ぶツールだ。
人生に役立たせるのは教師ではなく生徒自身。
それを下手に哲学的に教えるから「働くとは何か?」とか考えながら家に引きこもる若者が現れるのだと思う。
社会では他人のニーズに答えましょう。ありのままの自分なんて捨てなさいという教育をそろそろ始めてもいいのではないだろうか。
役者の衣を脱ぐのは家に帰ってからで十分なのだ。



このタイトルで記事を投稿しようとしていた矢先、淡路島で震度6の地震が起こった。
朝日新聞によれば太陽光パネルが並んでいる土地が液状化したそうだ。
今後大きな地震が発生すれば全国のどこかの太陽光パネルが水没することだってあるだろう。
東日本大震災では原発が大きな事故を起こし、今でもその話題は絶えない。
昨今の災害はエネルギーというものを見直すのにいい機会ではないだろうか。

巷では代替エネルギーについて議論がなされ、反原発派や原発推進派などというナンセンスなものができている。
どちらにせよこんな地震大国日本で既存の発電システムだけでやっていけるわけがない。
一方世界では魅力的な発電技術がたくさん研究されている。
例えばスイスでは海上に太陽光パネルを浮かべるという案がある。
オランダでは羽も可動部もない風力発電機が開発されている。
福島県富岡町ではバイオエタノールの研究が進行している。
その他にもネットで検索するだけでワクワクするアイディアがたくさん出てくる。
しかしそういうアイディアも実用には程遠い。
その原因の一つに“その技術がどれだけの電力を支えられるか?”という疑問があるからだ。
この疑問を解消する最も有効な方法は家庭や小規模な施設で実験することだ。
私はその実験を被災者の仮設住宅で行えないかと考えている。
言い方を雑にすれば仮設住宅は簡素な作りだ。
そのためカスタマイズも一般住宅に比べて非常にしやすい。
羽のない風力発電機を一家に一台取り付け、農家の温室ハウスにはバイオエタノールを使用する。
使い勝手のデータは実際に暮らしている人達から収集すれば良い。
もちろん企業や研究所は協力者に報酬を支払う。
乱暴な意見だという人もいるが、こうすることで復興そのものがビジネスと技術革新に繋がる。

今までは被災者=助けられる存在だったかもしれないが、これからは被災者こそが日本の技術革新の要になる時代になる。
私はそういう時代の方が面白いと思うし、実行したいという人は密かにいるのではないだろうか。
炎上を恐れずに言うが、被災地が完全に復興するまで数十年はかかる。これは確実だ。
その期間を利用して、企業と被災地が協力して未来に残せる技術を残していくのか。それとも補償が出るのを待つだけなのか。
私は前者のほうがいいと思うのだがどうだろうか。